蜘蛛の糸

鐘屋横丁

     

「アポロ」
「はい……」
 目の前にサカキ様の優しいお顔があります。唇が、私を求めて近づいてくる。受け止めました。薄くて、でも柔らかい唇。やはり同じです。サカキ様なのです。今、私とキスを分かち合っているのは間違いなくサカキ様なのです。
 舌が、そろりと入ってきました。煙草の味がする。それも、やはり同じです。ああ、サカキ様。もう、何処にも行かないで下さい……。私は、アポロはここにおります。常に、あなたの側に、置かせて下さい……。あなたのため、どのような仕事も致します。どんな相手にも、もう二度と敗北は致しません。誰が邪魔をしようと、あなたを守ってみせます。だから、だから、どうかずっとお側に……。
 しばらくして、唇が離れました。名残惜しそうに唾液が糸を引きます。
 ……糸。暗闇に垂らされた、一筋の糸を掴んでいるような心地です。憐れみと慈愛に満ちた、天から差し向けられた救いの糸。今それを掴んで、私は天に向かおうとしている。
「アポロ」
「はい」
「先に、シャワーを浴びて来い」
「はい……」
 言われるままバスルームに向かって、服を脱ぎました。シャワーを浴びて、少しだけ冷静さを取り戻せたような気がします。けれど、半分はまだ夢心地で、夢から覚めたくない思いが止まりません。
「……終わりました」
「ああ。待っていろ」
 身体を拭いて、広いベッドの上に座りました。これから、自分の身に起きる事は分かっています。サカキ様は「そういうひと」で、夜にはよく部屋に呼ばれました。
 まともに考えれば、今すぐ部屋から逃げ出すべきです。あの男は、サカキ様とは違う。違うのです。それでも、足が動かない。
「……」
 背中を丸めてうつむくと、身体から水滴がぽたぽたと落ちる。まるで涙のように。何が悲しいのか。あるいは、嬉しいのか。
 私はもう、まともではないのでしょう。サカキ様の影を追いかけて、ただただ当てもなく彷徨うのに、疲れてしまっている。この終わらない旅に、ゴールを求めてしまっているのでしょう。あの男は、それにはうってつけの人物かもしれません。
 シャワーの音が止まりました。緊張が走ります。結局、逃げ出す事はできず、ただ男を待っているだけになってしまいました。
 バスルームから、男が出てきました。
「どうした。随分緊張しているな」
「は……」
 変わらぬ優しい笑顔と、見つめてくる慈愛に満ちた瞳。またあの夢心地に、優しく揺り戻されてしまう。


~ 4/7 ~