蜘蛛の糸

鐘屋横丁

     

 ……海を見ながら、感傷に浸っていた私は、背後から近寄ってくる男の気配に気づけませんでした。
「お前か。私の事を嗅ぎ回っているのは」
 男の声。心臓が、どきりと大きな音を立てました。この低くてよく通る声は、間違いない。
「さ……サカキ様」
 立ち上がり、ゆっくりと振り返って声の主を確かめました。黒い髪に、美しい黒い瞳。黒いジャケットに、胸にはRのエンブレム。ああ。紛れもない。ずっと探していた、サカキ様……
 けれど、次の言葉に私はまた心臓をどきりと鳴らすことになりました。
「ほう。お前も、私を知っているのか」
「……?」
 訳がわかりません。サカキ様は私を忘れてしまわれたのでしょうか。
「分からない、と言った顔だな。お前、名をなんと言う」
「……アポロです。あなたの。右腕の……」
「ふむ。ロケット団の幹部、といった所かな。なかなか優秀そうじゃないか。そこのヘルガーも、よく育てられているな」
 ふと横を見ると、ヘルガーが尻尾を立てて唸っていました。サカキ様の前ではいつも大人しくしているのに。
「あなたは……? サカキ様では、無いのですか」
 自分の声が震えているのが分かります。目の前に居るのは、確かにサカキ様。しかし、わずかに違和感があります。話の噛み合わなさもそうですが、纏っている雰囲気がどこか違う。
「私はサカキだ。だが、お前の知っているサカキではない。平行世界の人間だ。この島にやって来たのは、ほんの気まぐれだ」
「……」
 平行世界。はいそうですか、と素直に飲み込める話ではありません。でも、この男の見た目も声もサカキ様そのものである説明にはなります。きっと、嘘では無いのでしょう。
「だが、お前に出会えたとなると、気まぐれも悪いものでは無かったな」
 男が笑いかけてきた。……ああ。何度も夢に見た、あの笑顔で。あの瞳で私を見て。笑いかけてきた。頭がおかしくなりそうだ。悪い夢であって欲しい気持ちと、夢なら覚めないで欲しい気持ちが入り混ざって、眩暈がする。
「……っ」
「おっと。大丈夫か」
 ふらりと倒れそうになった私の腰を、男が抱きかかえて支える。
「私の部屋に来たまえ。ゆっくり話そう。お前は、大事な部下だからな」
「は……い」
 抱えられながら返事をする。その声で囁かれると、頭に靄がかかったようになります。もう、どうでもいい。ニセモノでもいい。その姿で、その声で、甘い言葉をたっぷり囁いて欲しい。そんな気持ちが胸を支配します。
「クゥン」
 心配そうに鳴くヘルガーをボールに戻しました。これでいい。これでいいのです。


~ 2/7 ~