いつも通りの夜だった。お互い酒が入っているだけあって、少し激しかったかもしれない。それはアタシを安心させるのに十分だった。クレイは、クレイだった。よく知っている男が、目の前にいた。
「それで、どうする。俺を警察に突き出すか?」
煙草に火をつけながら、クレイは聞いてきた。
「まさか。こんな素敵な旅の仲間を、自ら失うなんて真似はしないよ。しかもこんな色男ときた」
「フッ。お前も、いい女だよ」
クレイは笑う。
「呼び名は、クレイで良いのかい。今まで通り」
「外では、その方が助かる。まだ、捕まるつもりはないからな。ベッドの中では、好きにするといい」
「そうかい」
そうして、いつものように微睡む。ほっとした。打ち明けても、アタシはアタシだし、クレイは、クレイのままだ。明日も一緒に旅が出来て、夜は抱き合える。新しい名前で呼んでやろうか。そんな事を、考えていた。
……甘かった。朝起きると、そこには誰も居なかった。テーブルの上に、置き手紙が置いてあった。
震える手で、封筒を開けた。短い文が、らしくもない、繊細で美しい筆跡で書かれていた。
「すまない。臆病な男だと、罵ってくれても構わない。
お前なら、きっとリーグに挑戦出来るだろう。楽しい旅を、ありがとう。
——クレイ」
……涙が頬を伝う。罵る事なんて、出来ようか。分かっている。手配書が出回るということは、ここも危ないのだ。クチバなら、海路もある。アタシに付き合うよりは、さっさと逃げた方がいい。正しい判断だ。
楽しい旅だったのは、自分も同じだった。礼を言いたいのもそうだ。それを伝える術が、もう無いのがただただ悲しい。伝わっているだろうか。一緒にいるうちに、伝えられていただろうか。
最後の署名。アタシの前に居たのは、サカキなどと言う男ではない。最初から最後まで、確かにクレイだったのだ。
「……クレイッ……」
泣きながら名前を呼ぶ。もう誰も、返事をする人は居ない。……偽名。実在しない人だった。それでも、いつの間にか、愛してしまった。涙が、止まらない。
テーブルの上には、もう一つ物が置いてあった。クレイの、煙草だ。恐らく、忘れていったのだろう。
「……」
それが、悲しみに浸るだけの行為だと分かっていても、手が自然と伸びた。煙草の箱を開け、残っていたうちの一本に火をつける。
「……」
クレイの、匂いだ。いつも包まれながら眠っていた、あの匂いだ。涙がさらに出る。
いつから、愛してしまったのだろう。最初に会った時か。初めて抱かれた時か。旅の途中か。
……これからは、ひとりだ。出会う前に戻っただけなのに、心はぽっかりと穴が空いたように寂しい。
燃える煙草を、しばらくの間、吸うことなくじっと眺めていた。……やがて、灰皿に押し付けた。
支度をして、部屋を出た。煙草は、まだ残りがあった。迷ったが、置いて出て来た。実在しない男に、いつまでも囚われる訳にはいかない。自分なりの、けじめだった。
「さて、次はどこに行こうかね」
強い南風の吹く日だった。思わず、目をつむる。自分の迷いや悲しみを吹き飛ばしてくれるような気がして、ありがたく感じた。
……いつか。いつの日か、もし会えたら……
そんな女々しい気持ちを抱えて旅をするのは、あまりに重過ぎる。全部、吹き飛ばしてもらおう。
風が止んだ。閉じていた目を開けて、アタシは歩き出した。前へ。一歩ずつ、前へ。
越えてみせる。この先に待ち受ける、どんな困難も。そんな、前向きな気持ちだった。
~ 10/10 ~